「江戸しぐさ」に学ぶ
「江戸しぐさ」と「江戸ソップ」
江戸しぐさは、江戸商人のトップに立つ人達、今で言えば経団連のメンバーに匹敵する江戸企業家の心構えといえます。
つまり、江戸城下町のリーダーの生き方、考え方、口のきき方、身のこなし方、行動をさし、人の上に立つ人達の実践哲学ともいえるものでした。同時に万民に役立つグローバル・スタンダードとして通用する江戸の感性でもありました。
「江戸しぐさ」の基本となるのは健康、つきあい、平和の三つの教えで、健康で明るく、楽しく暮らそうというのが基本ですから氣(神経)をわずらうのが一番身体にさわるとおそれられていました。そんな時は一に眠り、二に眠り、三に赤ナス(トマト)、四にめざしと言ったそうで、睡眠をたっぷりとれば、たいがいの疲れはとれ、それでも良くならない時は、栄養のあるトマトやめざしを食べれば良いと考えたようです。滋養をつけるには江戸ソップ(スープ)という栄養食があり、根菜類(人参、大根、ごぼう)や椎茸などのきのこ類を親指の頭ぐらいに切り揃え、昆布の出し汁で、時間をかけてコトコト、ほほ笑むように煮れば、湯の中で気持ちよくなった野菜たちが、大地で十分に吸収した恵み(エキス)を静かに吐き出してくれると言い伝えられてきました。貴重な薬のように扱い、病人のためや、災害時にも活躍した江戸の野菜スープは、野菜の持ち味だけで塩さえ入れず、今でも時間のかかるコンソメスープのようでした。
また「江戸食事仕様」には非常時の保存食や加工食の教えが残っています。米を蒸してこねた、ねじり棒は、浴衣やかたびらの襟元に非常食糧として縫いつけ、その味は昭和になっても変らなかったそうで、まさに江戸っ子の英知には驚かされます。
「水清く入り江のありて真魚豊か四方見渡せる商いの町」と言われた江戸。人口の半分を町方と呼ばれる庶民が占めましたが、居住面積は江戸全体の十六パーセント。狭い一角に住み、袖摺りあう様な所で他人と共存しながら気持ちよく暮らすため互助、共生(思いやり)の精神から、八百とも八千あるとも言われる「江戸しぐさ」が生まれたともいえます。この「江戸しぐさ」をできる人が真の江戸っ子だったようです。
食医同源
中国の周の時代、「周礼」という書物によると食医、疾医、瘍医、獣医の四分科があり、食医は食事と衛生を専門とした最高位の医師であったと記されています。食医は皇帝のための宮廷医ですが、一部の高貴な人のためとはいえ、健康と命を守るための栄養管理や食事療法などを行い、「食養生」の研究がなされていたようです。
日本でも江戸中期、食生活と健康法に関心をもった貝原益軒が「養生訓」(腹八分目の原点が記されている)を著し、明治時代には、〝心身の病気の原因は食にあり〟とした石塚左玄が「陰陽調和」や「身土不二」(自分の生まれ育った土地の食べ物がもっとも身体に良い)や「一物全体」(食物は一部分より全体を食べるべきである)で正しい食のあり方を主張しました。それほど昔は食を大事にしていました。
人は食べることで元気になり、おろそかにするだけで、不調になったりもします。現代の食生活は一見豊かであるようですが実際は、三食すべてファーストフードで済ませたり、加工食品ばかり食べたり、栄養をサプリメントで摂ったりと「食」をおろそかにしている例が数多く見られます。
病気を治す医療機関は立派になり、手術の技術もあがってきたかもしれません。それは、あくまでも発症してしまった病気を治す対処療法にすぎません。それよりも病気を起こさずに、身体の健康状態をどう保つかを考えることが、本来の医学のあるべき姿ではないでしょうか。予防医学として「食」からも医を学ぶ時代に来ていると感じております。
◇参考資料
フリー百科事典 ウィキペディア
『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』越川禮子
『食の堕落と日本人』小泉武夫
『食がこどもたちを救う』服部幸應
文:NPO日本食育インストラクター会員 佐味慶子(認定B2-090002)